日本の夜と霧
990円(税込)
2022-11-28
大島渚の京大における体験と石堂淑朗の東大の体験を重ね合わせる形でシナリオをつくり始めたが、二人は大いに迷い、映画評論家、学生、俳優にも意見を聞きながら撮影を進めた。映画は1960年10月9日に封切られたが、12日に浅沼稲次郎が刺殺されると、映画会社は一方的に上映を中止する。大島渚と松竹の対立を決定的になり、大島は松竹を退社。続いて、石堂淑朗、田村孟も辞表を出し、小山明子、小松方正、戸浦六宏らも参加して、創造社が設立された。「日本の夜と霧」によって松竹ヌーベルバーグは終焉を迎え、以後、大島らは独立プロとして映画にかかわっていくことになるのである。
底本:「日本の夜と霧」(現代思潮社、1972年第8刷発行)